あのことわたし

21年一緒に過ごした猫とのお別れの記録

あのこがいない年がはじまった

あのこがいない年がはじまってしまった。21年ぶりになる。

 

あのこの写真を見ながら年が明けたよと寒いよと語りかけながらもこれからもよろしくね、とはいえないことが辛かった。毎年毎年一番最初に新年のあいさつをしたのはあのこだった。去年はありがとう。今年もよろしくね。そう言いながら頭をやさしく撫でるとにゃーとこたえてくれていた。今年からはあのこの写真に向かって言うことになる。撫でることもできないし声を聞くこともできない。そして言えない言葉もある。

 

猫の魂はどこにいくのか、そもそも魂というものはあるのか、輪廻転生というものはあるのか。それはどれだけ考えてもわからない。魂というものがあって、輪廻がないならあたたかいところでゆっくりとしていてくれるといいと思う。もし輪廻転生があるのならどんな体の中に入っていたとしてもやさしくあたたかい生を歩んでくれればいいと思う。とにかく幸せであってほしい。

 

あのこのことを想う時間は長く、未だに寂しくて泣くことも多い。でもあたたかくやさしい時間をありがとう、今幸せであれと必ず思う。あまり寂しい辛いと言ってはいけないかもしれない。けれどそれは本当の気持ちであって嘘をつくことはできない。どうしても寂しいし辛い。でも感謝の気持ちとあのこの幸せを願う気持ちも本当のことだ。

 

2016年はあのこがわたしの世界からいなくなってしまった。だけど心の中のあのこのしっとりとした心地よい重みは変わらないままだ。もし待っていてくれるなら待っていてほしい。見ていてくれるなら見ていてほしい。でもなにより大事なのはあのこの幸せなのだ。

 

2017年はきっと今までと全く違う年になる。あのこが、そしてあのこたちがいてくれたおかげで今のわたしがある。それをいろんな人に伝えられる人生にしていきたい。

 

 

ペットロスのこと

私は大切な猫と別れてから泣く日々を過ごした。情緒不安定であることはもちろん、虚脱感や無気力感、不眠など、体調の変化は大きい。この症状はいわゆるペットロス症候群にあたるものだろう。

 

思い出すたび声を出して泣き、仕事もうまくいかない、ベッドにはいってもいつもいるあのこが隣にいないことで涙が浮かぶ、いっそのこと死んであのこのところへ行きたいと何度も思う。ペットロスを検索したところ、ペットロス 克服という文字が引っかかる。そこでわずかな違和感を持った。

 

ペットロスを克服したいわけじゃない

何故違和感を覚えたのか。私は克服したくないのだ。ペットロスと言われる私のあのこを思う悲しみは同時に思い出の再生だ。克服とはそれらとの別れを意味するのだと思ってしまった。忘れるというわけではないことはわかっている。それでも悲しむことでより近くにあのこといることを感じていたのだと気付いた。

 

ペットロスの克服に関して書かれているサイトをいくつか拝見した。これらで何らかの癒しになる人がいるならばそれはそれで良いと思う。しかしペットとの別れは人の数だけあり状況も様々、そしてそれに伴う感情は一つにまとめることは不可能だ。私にはあまりぴんとこなかった。

 

一番よく目にしたものはキュブラー・ロス・モデルと呼ばれるものだった。

 

否定(あのこはまだ死んでいない)

怒り(獣医や自分、環境への怒り)

交渉(神様どうかあのこを生き返らせて)

抑うつ(無気力、強い悲しみ、鬱)

受容(ペットの死を受け入れ前向きな感情が戻る)

 

これらの流れを経て回復していくというものだった。提唱したキュブラー氏自身全てに当てはまるわけではないと言っている。しかしもし当てはまりこれで救いとなる場合には参考にするのも一つの手段だと思う。

 

www.koinuno-heya.com

 

 私の場合あまり当てはまるように感じなかった。克服しなければならないと考えるときの負担はやはり大きい。悲しいとき、涙があふれて仕方ないとき、心は軋むように痛むし寂しいと思う。しかしこの状態が嫌だとは思えなかったし、思いたくなかった。とはいえ仕事が手につかない、死にたい、食欲がないなどというものは問題である。どうすればいいか考えた結果、ペットロスと付き合い方、解釈の仕方を変えることにした。

  

ペットロス克服ではなく付き合い方を考える

あのこが亡くなったことを悲しむことは当然だった。あのこは私の家族だ。家族を失う悲しみは大きいことが当たり前なのだ。これはもうどうしようもない。一生死ぬまで思うことだ。一生あのこを思って泣く。意識して悲しみを軽くする何かをする必要はない。そう思うと気持ちが軽くなった。

 

私は恵まれているのだと思う。あのこが息を引き取る瞬間私はその場にいることができた。そのためあのこの死が間違いなくあったことを否応なく理解できている。お世話になった獣医さんや看護師さん、その他環境に対しても良くしてもらった感謝ばかりだ。自分に対するものはあるものの、あのこのために全力を尽くせたとは思っている。全力を尽くせる環境があったとも言える。そのため自分への怒りはまだ許せる範囲におさまっていた。そう思えるのもあのこが必死に懸命に生きてくれたおかげだ。

 

死ぬ直前のあのこの苦しみを見ているせいか生き返らせてとも思わなかった。あのこは今暖かく優しい場所にいるはずだ。肉体の痛み苦しみから解放されているのに引き戻すことはできない。これらのことを思うと前述したキュブラー・ロス・モデルでいえば交渉という段階まではどれにも当てはまることはなかった。

 

その上で私がよく考えたことは死にたいということだった。あのこは死んでしまった。自分を含め誰かを責めても何もならないし、責める気もない。生き返らせることもできない。ならば私が行くしかない。そんな流れだ。

 

自殺してもあのこのところへは行けない

私は自殺を考えたことはこれまでにもあった。しかし心から真剣に死ぬことを考えたことは少なかったのだと思い知った。本気で死ぬ方法を考えていた。誰かを憎むことなく死ぬことを考えることもあるのだ。しかしあのこのことを考えて思考は止まる。

 

あのこの生き様を思う。あのこは最後の最後まで必死に命を燃やして煌めいていた。生きることに対する懸命な生き様。あのこは生きるということに全力を尽くしていた。そんなあのこが今どこかに居るとして、自殺を選ぶ私が同じ場所に行けるのか。行けるわけがない。

 

そして私は何度も何度もあのこに救われていた。死にたくなったときに癒してもらった。寄り添ってくれた。あたたかでやわらかな体に触れると触れたところから疲れが消えていくようだった。私があのこを病院に連れていったとき戻ってきてくれた。私が席を外した間も待っていてくれた。夜眠ってしまった時間も頑張ってくれていた。おひさまのある時間、私がそばに行くまであのこは頑張ってくれた。それがどれだけ私の救いになっているのか。

 

あのこに救われた私の心や人生を簡単に放棄していいのか。駄目に決まっている。そう思ったら死ぬという選択肢はなくなった。

 

生きる術を放棄することは自殺と同じ

 仕事をする気力がわかない、食欲がない、何もしたくない、という状況に陥るときもあった。しかしこれは結局そのままにしておくと死んでいくだけだ。積極的に死ぬことをしていなくても死ぬことがわかっていながら何もしないことはただの自殺だ。私は自殺の選択肢はなくしたのだ。生きていくための活動をやめることは自殺だと思うことでわたしは当たり前の生活を取り戻した。

 

克服するために何かをするのではない

ペットロス 克服 と検索すると克服するためのステップが書かれていることが多い。それを求める人も当然多いだろう。しかしそれが少しでも負担と感じるならば一旦克服することをやめてもいいのではないかとも思う。大切な家族を亡くしたのは自分であり、悲しみも苦しみも自分の中にあるものだ。答えは外にはないのではないか。

 

克服を目的にすることは私にはできなかった。克服をそもそもしたくないと考えている自分がいたからだ。だから克服しようという気持ちは捨てた。かわりに今の私の感情、状態、状況をより深く考え、あのこのことを想うことにした。

 

私はあのこが大事であのこを思う気持ちを時間とともに薄れさせたくなかった。しかし死ぬことはできない。してはいけないとストレスなく思う。あのこに救ってもらっていた癒してもらっていた人生をきちんと生きていくのだ。

 

克服をするためにはなにもしなかった。しかし私はあのこのおかげで残りの人生を誠実に見つめて生きていくと気持ちが固まった。

 

あのこが居ない欠けた世界で生きる

あのこが居なくなって四ヶ月になろうとしている。それでも突然悲しくて号泣する日がある。あるサイトでは三ヶ月をすぎてもペットロスの症状がおさまらなければ病院へと書かれていた。四ヶ月どころか何年経っても強い悲しみはあるのだと思う。でもこれでいいのだと思った。

 

うちにいた猫たちが眠るお墓へいった。涙が止まらなかった。みんなもう私の見る世界にはいないのだ。そしてあのこももういない。みんないなくなってしまった。私の世界は私の脳が映し出す世界が全てだ。私が見る私が居る世界であのこやあのこたちは凄まじく大きい存在で、欠けているものは埋めることはできない。埋めようとも思わないけれど、埋めることなど不可能なのだ。

 

生きていく限りさまざまなものが失われ、さまざまなものたちとの別れがある。新しい出会いは世界を広げるにすぎず、空白を埋めることにはならないものだ。私が死ぬまで喪失感はあり強い悲しみはあり、時に無気力となることもある。それでいい。それがいい。私はあのこを喪った悲しみとともに生きていく。そしてあのこに救われた命と人生を誠実に生きていくのだ。

 

私の愛した猫がいない世界で 3

1日後

今日は火葬場へ行く日だ。8月で太陽が見えているのに過ごしやすい日だった。うちに居た猫たちは皆市の火葬場でお別れしている。ペット霊園で火葬にすべきか、家の庭に埋葬するか、いつも悩むが、考えた末市の火葬場にお願いすることになった。家の庭だともしこの場所で住まなくなったときは強制的に取り残してしまう、ペット霊園は悪くはないけれど、もし閉鎖なんてことがあったらどうしよう。そんなことを考えて市の火葬場を選んだ。でもなによりの理由は私が死んだら同じ場所で燃やしてほしいと思ったからだった。

 

あのこの体はまだ硬直が残っていて足をゆるく曲げることができなかった。ダンボールを繋げて毛布を敷いてあのこを横たえた。寒いかもしれないと思って体にも好きだった毛布のひざ掛けをかける。そのまま花屋に向かった。あのこの体の周りにたくさんお花を散りばめた。おじょうさんみたいなかわいいあのこにぴったりの白や薄いピンクや薄い黄色のおはながいっぱいだ。お花畑の中で眠っているかのようでとても愛らしくて美しかった。そこに昨晩書いた手紙を添える。

 

火葬場には母と二人でいった。火葬場への道のりがもっと長ければ良いのになどと思いながら運転していた。しかし15分もすればついてしまう。少し息苦しかった。火葬場は緑に囲まれた静かなところだ。うちにいたこたちの体とここでお別れした。ここは畜魂碑が建っている。しかし遺灰がある場所はここではない。別の供養を行うお寺に運ばれるという話だった。そのお寺は全国いろんな場所の火葬場から動物たちの遺灰が送られ供養しているところだそうだ。愛されていたこも苦労していたこもみんなそこで供養してもらえるのだと思ったら少し救われるような気持ちがした。みんなと一緒ならさみしくないかな。そうだといいな。そんなことを思いながら眠るあのこを見る。撫でるといつもとかわらないやわらかな耳に涙がにじむ。

 

お別れの時間がくる。火葬場の人は若い男の人だった。とてもやさしい印象を受けた。火葬場の人たちはみなやさしい。そういう人が選ばれているのだということはわかっている。けれどこれがどれだけ救いとなっているのか、本当のところはそのときにならなければわからない。やわらかい口調や物腰は心に身に染みる。手紙を一緒に入れてもいいですかと聞けばどうぞいれてあげてくださいと言ってくれた。

 

お別れの時間になる。眠るあのこは安らかな顔をしていた。胸水が溜まってとても苦しかったに違いない。その苦しさから解放されたのだ。21年という月日は人の視点であっても長い。猫の21年は本当に長いものだ。私の人生の半分以上はあのこといた。つらいときもかなしいときも癒してもらった。たのしいときうれしいときも話をきいてもらった。一緒にあそんだときはほんとうにたのしかった。あのこが好きそうだなと思ったらなんでも買ってきた。

 

あのこがベッドにのぼりやすいように階段を作った。シングルベッドで寝ているときにあのこの眠るクッションを枕においたら本当に私の眠る場所が少なくて笑ってしまった。それでもよかった。大きいベッドにかえてふたりして広々と眠れるようになったのにやっぱりすぐ近くで眠っていた。冬は足の間で丸くなっていた。

 

かわいかった。大好きだった。愛していた。愛しかった。間違いなく私は死ぬまであのこのことが大好きで愛している。

何を言おうか悩むことはなかった。

 

ありがとう。

今までずっとありがとう。

大好きだよ。

またすぐ会おうね。

ありがとう。

 

 

私の愛した猫がいない世界で 2

0日 8月25日 

衰弱は明らかだった。体は限界なのだとよくわかる。開口呼吸している。病院が開く時間が近づいていた。どうすればよいのか。どうすることがよいのか。よいことなんてなにもない。何が正しいのかなんてないのだとわかっていながらも正解を探していた。病院に連れて行ってそしてそこで亡くなってしまったら。ゲージの中は当然このこの大好きなクッションなどない。低い温度の治療室なのだ。安らぐことはどうしたってできない。そこで家族のいない場所で逝かせてしまうのか。しかし私はまだこのこと一緒にいたい。それはエゴじゃないのか。この判断で私は後悔しないか。

 

考えてどうしても答えがでないまま病院が開く時間になり私は頭で結論を出す前に病院へ連れていった。苦しそうだ。胸水を抜くだけなら。それだけならまだきっと大丈夫。そう思って連れていった。

 

朝一番で来た私たちをみた先生はすぐに対応してくれた。そしてすぐに処置を行いますと言われた。いつものように一時間酸素室で安定させてから、そして連絡をする、そういう話だった。しかしいつものように誓約書にサインをしていると、看護師さんがそのまま待っていてくださいと伝えてきた。とても慌てていた。

 

待合室であのこをいれてきた籠を抱えてぼんやりと座っていた。病院にはいつも母ときていた。母も心配なのだ。二人で並んで座っている。無言だった。どうしたのかな、と母が言う。何かあったんだろうね。そう答えながら頭が鈍く動いていくのを感じた。何か。何かなんて決まっている。危篤になったのだ。私が決めて病院へ連れてきた。処置の方法もリスクもわかっていて、衰弱がひどいこともわかっていてそれでも連れてきた。何を考えたらいいのかわからずただ待っていた。

 

20分ほどして呼ばれた。ぐったりとしたあのこに酸素マスクを当てた状態で看護師さんが立っていた。先生が言う。一度心臓が止まりました。ゲージに入れた途端ぱたんと倒れて息が止まった。心臓が止まったのだと、そう言われた。そこから蘇生処置を行って今なんとか心臓が動き出した。蘇生したのだ。かえってきてくれたのだ。

 

14時12分

家に戻ってきたときはまだ頭がうまく動いていなかった。部屋を整えチリないように掃除をして、そして一時間半後、迎えにいった。胸水を抜けばわずかながら元気を取り戻していたあのこはぐったりと体を横たえていた。先生が言った。もう今日はおそらく越えられない。もしかすると数時間で、ということだった。

 

あのこの体は細かった。いつも見ていた窓の外をぼんやりと見つめている。私の部屋はあのこの部屋だ。部屋に戻るとあのこはふらふらと自分のクッションで体を横たえた。帆立缶を空けても食べようとしない。細い体だった。小さい頭に指で優しく触れる。少しだけ私を見る。あのこの目はいつもやさしい。笑みでかえそうとして涙があふれてしまった。私が泣いているとそっとよりそってくれたあのこ。やさしいこだった。笑顔にならないと駄目だと思ってもうまくいかない。

 

家族に呼ばれて少しだけ部屋を出た。ゆったりと横たわっている姿はおだやかだった。まだ大丈夫。すぐ戻るから、とそう言いながら部屋を出た。15分もかからなかったと思う。戻ってきたときあのこはクッションにいなかった。

 

一瞬何があったかわからなかったが、驚いたことにトイレにいたのだ。もうすでにすぐ近くにおいてあった砂のトイレだ。歩くこともままならなかったのにトイレにいったあと、ふらふらとしながら机の下の暗いところに向かう。あのこの名前を呼びながらどうすべきか迷った。私が見ている中、あのこはもう歩くことなんてできないはずなのに倒れそうになりながら水飲みばに向かった。息も絶え絶えに水を飲んだあと、いつものクッションに横たわった。息がどんどん荒くなる。目を見開きながら口でをする。もうすぐなのだ。

 

ありがとう。戻ってきてくれてありがとう。本当にありがとう。ごめんね。苦しいよね。苦しいのとってあげられなくてごめんね。今までありがとう。ずっとずっと大好きだった。今もこれからもずっと大好き。一緒に過ごせた時間は私の中で宝物だよ。ありがとう。ありがとう。本当にありがとう。ありがとう。ありがとう。

 

あのこが痙攣した。少しこわばりそしてふ、とあのこの命がここから消えたことがわかった。目は空を見つめながら何もうつさなくなっていた。心臓は少しだけ動いてそしてゆるやかになっていき心音が聞こえなくなった。逝ってしまった。

 

0日 最期の夜

声を出して何度も泣いた。名前を呼んでお礼をいっての繰り返しだ。冷たくなってしまったあのこはまるで寝ているようだった。苦しみから解放されたんだと思うと少しだけ救われた。あのこの体をいつも寝ている籠のクッションに横たえて、保冷剤をクッションの下に敷き詰めエアコンで部屋の温度を極力下げる。最後の夜はいつもみたいにベッドで一緒に眠ることにした。

 

ベッドヘッド凭れて枕の横で眠るあのこをみる。かわいいおかおはまるでかわらない。眠っているようだと何度も思う。何度も撫でる。死後硬直が起っても耳はやわらかかった。名前を呼んで語りかけた。最初であったとき橋から落ちそうになってたこと、昔はやんちゃだったこと、綺麗好きでいつも毛繕いをしてたこと、新しい毛布が大好きで出すと誰よりもはやく乗って眠ったこと。おしっこするときは誰かについてきて欲しがったくらいのさみしがりやだったこと、ベランダが綺麗になってベランダに出ることが好きだったこと。迷子のようなものをつけて庭で少しだけお散歩のようなことをしたこと。楽しかったね。すごく楽しかったね。そんな風に話していた。

 

明日火葬場でお別れする時に手紙をいれようと思った。あのこの隣、ベッドの上で書き始めた。書きはじめると止まらなかった。楽しかった思い出とお礼。それを書きながらここ数日のことを思う。あのこは一度心臓が止まった。もしあのとき逝ってしまったら、私はきっと一生自分の判断が許せなかった。病院へ連れていったことを許せないまま自己嫌悪で苦しんでいたと思う。あのこは戻ってきてくれた。こんなところでも私を救ってくれたんだと思ったらまた涙がでてきた。すばらしい獣医の先生に出会えたことも本当に良かった。あのこを連れ戻してくれたのだ。あのこ自身の力とそして先生のおかげだ。

 

思えばあのこには救われることばかりだった。うちには今までにあのこ以外にも三匹の猫がいた。どのこも街中や家の前、はたまた家のすぐそばで死にかけているところをに遭遇してうちに連れてきたこたちだった。みんな死んでしまった。いつも悲しくて本当に悲しくて辛かった。そんなときもあのこはずっとそばにいてくれたのだと気付いた。家族となった猫たちを失う悲しみを癒してくれていたあのこ。だから私はなんとか立ち直ってこれたのだと今ならわかる。あのこがいなくてうちから猫たちがいなくなってしまった。尋常じゃない喪失感だった。

 

手紙は7枚にも渡る長文になってしまった。思うことが多過ぎた。私は以前、家に猫がいることで長期で旅行にいけないことなどを少し残念に思ったことがあった。いろんな不都合なことをうちには猫がいるからできないなんて理由にしたことがあった。最低だ。そのことを書いた。結局は自分の問題でしかなかったのに。あのこたちから多くのものを貰って救われたというのに。でも軽率な考えだったと今ならはっきり言える。もしすべての記憶を持って別れの苦しいほどの痛みを知っていながら過去再びあのことであっても、手を伸ばすことに欠片のためらいもない。そう思うことができたことが少しだけ嬉しかった。

 

私はあのこから沢山のものを貰い沢山救ってもらった。あのこは幸せだったのかなと考えた。幸せだったかどうかはこれからしばらく私を悩ませることになるものだった。それを疑うことがひどいことだと、21年という月日は幸せであったと言えるのだと言われて心が癒されることはもうすこしあとのことだ。このときはいつもそばによってくれたこと、一緒にくっついて眠ったこと、そんなことを思い出して、愛されていたのだと、愛してくれていたのだと沁みるように思っていた。

 

手紙を書き終えて眠っているあのこを撫でる。いつもとかわらない。ふわふわとした綺麗な毛並み。顔を近づけてすんと嗅げばいつものあのこの匂いがした。おひさまのようなクッキーのようなあまくてあたたかい匂い。でもひんやりした体が私に教えるのだ。まるで違うのだと。おやすみ、と告げた。最後のおやすみだ。

 

 

 

 

私の愛した猫がいない世界で 1

21年間一緒にいた猫が息を引き取った。

辛い。

苦しい。

 

大好きだった。かわいい子だった。いい子だった。やさしい子だった。にゃ、と小さく返事する声が好きだった。尻尾で返事してくれるのも好きだった。ひだまりの匂いが好きだった。辛いことがあるといつもあのこの元にいってあのこに触れた。触れた瞬間から辛さが緩和していくのを感じていた。大好きだった。私の魂の一部だった。いつもあのこの体に手をあてて私の命を上げるからさいごまで健やかに元気に苦しくないように生きて。幸せに生きてと願っていた。3キロを超えることのない小さなこだった。最後は2キロを切っていた。まるで空っぽのペットボトルみたいだった。

 

甘やかしすぎと言われた。そうかもしれない。でも足りない。もっと甘やかしたかった。どんなこともきいてあげたかった。にゃあとなくあのこの気持ちをちゃんと理解してあげているのか不安になることも多かった。私の後についてくるあのこがかわいかった。大好きだった。愛しかった。どんなことをお願いされてもきいてあげたかった。あのこの一生は私よりも短いのだから。そう思えば出来る限りのことをしてあげようと思っていた。ふかふかのクッション美味しいごはん。お部屋でいちばんおひさまの光がぽかぽかあたるベストボジションは全部あのこの場所。

 

もっともっと甘やかしたかった。

でも甘えてたのは私の方だったんだ。

 

私はあのこの願いをかなえてあげたくて仕方なかった。出来る限りのことをしていた。でもあのこは私のそんな気持ちをわかっていたんだと思う。長く生きられるといい(長く生きて)。最後は病院ではなくおうちで息を引き取れるように(おうちに帰ってきて)。最後はあのこが寂しくないようにずっとそばにいてあげたい(一緒にいたい)。あのこのために思う気持ちは私の願いだった。そしてあのこは全部かなえてくれていたのだ。

 

 

6日前 8月19日

 胸水が溜まっている。それを聞いたとき鈍く絶望を感じた。もうだめなんだ。そう思った。胸水の予感はあった。咳をするようになってから頭をよぎったものだった。だから獣医さんに聞く前にネットで検索をいっぱいしていた。余命一か月と言われた、胸水と診断されてから三日でなくなった、半年頑張ってくれた、そんな結果をみた。三日って何。明々後日ってまだ八月も終わってない。半年でももしかするとまだ2016年なの。でも今日は胸水って言われなかった。違うのかな。そんなものを見た翌日の診断結果が胸水が溜まっているから抜くということだった。

 

あのこは腎臓が悪くもう20歳を超えている。麻酔はできない。今だととにかく息が苦しくて今日にも危ない、でも胸水を抜くときはリスクがある。酸素室にいれて息を整えてから胸水を抜けばリスクは少しは下がるかもしれない。そう聞いた。リスクとはその場で死んでしまうかもしれないということだ。そして抜かなければ苦しいまま今日死ぬかもしれないということだった。私は極力リスクを下げて胸水を抜いてくれと頼んだ。苦しかった。

 

麻酔なしで針を内蔵まで刺す。激痛であることは想像できる。しかし想像だ。どんな壮絶な痛みなのか私には本当の意味での理解はできない。それでもお願いしてしまった。今苦しいからそれは可哀想だから、先生は胸水を抜いた方がいいと思っているんだと感じた、そんなことを言い訳という言葉を思い浮かべながら考えた。承諾書にサインをした。これは術中に死ぬことがあるからだとわかった。リスクがあるものなのだ。

 

一時間酸素室に入れて呼吸が安定したら胸水を抜く、終わったら連絡をすると言われて家に帰った。連絡があるまでの時間は生きた心地がしなかった。あのこが帰ってくるまでに出来ることは何か。掃除くらいしかできなかった。晴れていたからクッションを干してふかふかにしておいた。ぴかぴかきらきらぽかぽかのお部屋ができた。でもあのこがいなくては話にならない。不安で苦しくて辛い。そんな時連絡があった。今安定しています。迎えに来てあげてください。私はすぐに迎えにいった。

 

酸素室にいるあのこは私を見た途端にゃーにゃー鳴きだした。すっかり元気になっている。酸素室の中からはやくだしておうちにかえろって言っているみたいだった。胸水を抜いて呼吸が楽になったのだと聞いた。あのこはおとなしいおだやかなこだった。苦しさと痛みはどれほどのものだったのか。おとなしいあのこはやっぱりおとなしくしていたのだ。苦しさも痛みもおもてに出す気力もなかったのかもしれない。それでも今元気になっているのを見たらどんなに苦しくてもまだおうちに帰りたいとそう言っているのだと思った。

 

嬉しかった。とにかく嬉しかった。おうちに帰って細い体でよちよちと歩く姿に愛しさが込み上がる。窓の外をみながらごろりとして体を舐めたりお顔を洗ったり。いつもきれい好きなあのこはいつものようにきれいになっていった。もう21歳だというのにあのこの毛並はとても綺麗だった。獣医さんにも褒められた。いっつも毛繕いしているんですよ。そう言ったらそうなのおじょうさんだねえと優しく言ってなでてくれた。心が温かくなった。

 

さらさらの毛に触れるとなあにと顔をあげる。その顔は本当に昔からかわらない。するりと撫でると背骨が指に当たった。胸水を抜くために剃られた場所は地肌が見えて、肋骨が浮いていることがよく見えた。こんな儚い体の奥深くまで針が刺さったのだ。頭を撫でる。気持ちよさそうに目を細めるあのこにありがとうと言うことしかできなかった。ここに戻ってきてくれて、ありがとう。

 

 

5日前 8月20日

 翌日は点滴にだけ行った。今日は呼吸が楽そうですね。胸水が溜まったらまた抜くしかないのですが、今日は大丈夫です。そう言われて帰った。ベッドの上にある自分のクッションの上に寝ているあのこ。今日もまっすぐ帰ってごろごろすやすやしはじめた。かわいいなあ。そんなこと思いながら私も寝転がる。横を向けばあのこが寝ている。そんな幸せなベッドに私はいつも寝ているのだ。

 

考えてみれば本当に恵まれている。うにゅうにゅいいながらおかおを隠したりしっぽを巻いたりのびーっとした腕が顔にあたったり。幸せいっぱいだった。おみみの後ろを撫でられるのが好きで撫でると気持ちよさそうにする。いつもと変わらないと思った。

 

 

4日前 8月21日

 更に翌日の夜。あのこの体調が急変した。開口呼吸をはじめた。苦しそうに立ち上がれない。病院が開くまであと八時間。七時間、六時間。深夜にいったところで胸水を抜くには先生だけでは無理だ。何人かの看護師さんの手も必要だと言っていた。夜間診療所はもうやっていない。そもそもそこに行くまでの一時間の車の振動に耐えられるように見えなかった。

 

ふらふらしながら自分のクッションでおもらしをしてしまった。そこからでてベッドでも再び。トイレは近くに置いてある。すぐにそっと移動させてもそこではしない。気にしないで。全然大丈夫だから、一番楽なようにするんだよ、一番くるしくないようにするんだよ、すぐきれいなクッションだすからね。そんなことを言いながらあのこをやわらかいクッションに移動させて様子を見ながらおしっこをふき取った。涙がとまらなかった。

 

くるしいよね。ごめんね。ごめんね。苦しいのとってあげられなくてごめんね。あのこを見ながらずっと泣きながらあやまっていた。

 

 

3日前 8月22日

 とても寝られずそのまま朝一番に病院へ連れて行った。すぐに処置します。そう言って先生はあのこを酸素室に連れて行った。また承諾書を書いた。胸水を抜くのだ。連絡先をかきながら、眩暈がした。寝ていないせいじゃない。この連絡先にどんな言葉が伝えられるのか怖かった。家でシーツやクッションを洗って干して、いつでもあのこがこの大好きなベッドで寝られるようにとそう思ってきれいにした。一時間半後、処置が終わって今安定していますと連絡があった。

 

酸素室ではもうニャーニャーとなかなかった。ぼんやりと私を見ていた。帰りに獣医さんにもう点滴に通わなくてもいいでしょう。腎臓病食にこだわらず好きなもの美味しいものを食べさせてあげてください。刺身でもなんでもいいです。そう言われた。どういう意味なのかはすぐわかった。

 

帰ってきたあのこはいつもベッドの上のクッションに寝るのにもうベッドの上にはいかなかった。行く体力もないのだ。床に置かれている方のさぶとんにぱたりと寝転がる。寝ていないのだ。あんなによく眠るこがまったく寝ていない。すぐうとうとしはじめるのを見てそっと撫でた。私は在宅の仕事をしている。すっかり溜まってしまったものをその間に片付けていた。15分ごとにあのこの様子を見る。いつものような寝相がない。ただくったりとして体を休めていた。

 

何も食べてくれない。とにかく何か食べて欲しくて昔好きだった帆立の缶詰をあげたらたくさん食べてくれた。嬉しかった。本当に帆立の缶詰が好きなんだなあ。最近は体のためを思って腎臓病食ばかりだった。猫用のおやつもあげたりもしていたけれど、全部高齢猫用のものだ。帆立の缶詰なんて何年ぶりなんだろう。おいしい?ときけばにゃーといってたくさん食べてくれた。涙が出た。

 

もうすぐお別れをしなければならないのだ。あのこの横の床に転がっていつものベッドみたいに顔の横にあのこがいるみたいに並んだ。やさしくやさしく撫でながらごめんねくるしいよねいたいよねごめんねと言っていた。ありがとうと何度も言った。言いながら涙が出てくる。かなしい顔をしているとねこさんもかなしくなっちゃうよ。そう動物病院に務めている子が言っていた。笑おうとしてやっぱり涙は出てしまった。何かをしながらふと唐突に声を上げて泣くような状態だった。謝罪と感謝。それの繰り返しだった。私はこのこをちゃんと幸せにしてあげられていたのだろうか。

 

その日はそのまま床で寝ることにした。枕を持ってきてタオルケットをかけて隣で寝ていた。硬いフローリングが痛かった。でもそれよりもいつお別れがきてしまうのかと思うと怖くて眠りたくなかった。食欲もないまま二日の徹夜はちょっと私の体には堪えた。ぷつりと意識が途切れる瞬間がある。それを繰り返している中少し長く眠ってしまった。

 

時間にして二時間。あのこを見ればクッションから頭だけ出して床にことりと落としている。ぞっとした。急いで名前を呼んだ。あまりにも軽い頭を支えた。逝ってしまったのか。そう思った。私はここまできて看取ることもできなかったのかと、ひとりで逝かせてしまったのかと凄まじい後悔と絶望が襲った。そのときふわりと手が軽くなった。あのこが顔を上げている。だいじょうぶだよ。そう言ってるように思えた。まだあのこはここにいた。いてくれた。

 

 

2日前 8月23日

 もうベッドに上がれないあの子と床で寝ながらあの子の顔を見ながら外が明るくなるのを待つ。あの子は苦しくて眠っていられないみたいだった。目が瞑れないのかうすく目を開いている。何が見えているのだろうか。帆立の缶詰は相変わらず食べてくれる。バターも少しだけ舐めた。マグロのお刺身も置いてみたけどマグロはあんまり好きじゃないみたいだった。帆立缶が本当に好きなんだね。

 

昨日の朝よりはよっぽど楽そうだ。でもやっぱりやつれている。少し苦しそうだがおしっこもトイレできちんとできている。病院につれていくべきか悩む。明日は病院のお休みの日だ。今日連れていくべきかどうか。今日連れていかなければ明日一日病院には行けない。しかしリスクを伴う処置なのだ。もしかするとそこで亡くなってしまうかもしれないようなものだ。もし。もしこのまま亡くなってしまうならば。せめてこのまま家で看取りたい。苦しくて痛い思いをさせてそのせいでそのまま病院で亡くしたくない。そんな気持ちで迷いながら今日を終えた。 

   

 1日前 8月24日

明らかに前日よりも消耗している。ぐったりとしている体はとても細い。抱き上げることはもうできなかった。細く軽い体の中にはもう胸水が溜まりはじめている。抱き上げるとあの子が苦しい。極力力を入れず優しく頭を撫でる。私を見る目は常に潤んでいて虚ろだった。それでも私を見ようとしてくれている。どんどん衰弱していくのがわかる。やはり昨日病院につれていくべきだったんじゃないのか。私の判断は間違っていたんじゃないのか。昨日連れていけばまだ長く生きられたんじゃないのか。もっと体が楽になれたんじゃないのか。離れたくなかった。私はこの子に本当に沢山のものを貰っていた。

 

これから過ごしやすい季節になるよ。こたつもいれるよ。雪が降ったら抱っこしておそと散歩してみたいな。そして春には綺麗なお花を一緒にみたいよ。季節がめぐる度思い出が増えていく。当たり前のようにもうすぐあったかくなるね、もうすぐさむくなるね、そんな会話をしていた。夏には。秋には。冬には。そして来年の春にはなにをしようか。そんなことを言っていた。聞いてくれていた。涙がとまらなかった。