あのことわたし

21年一緒に過ごした猫とのお別れの記録

ペットロスのこと

私は大切な猫と別れてから泣く日々を過ごした。情緒不安定であることはもちろん、虚脱感や無気力感、不眠など、体調の変化は大きい。この症状はいわゆるペットロス症候群にあたるものだろう。

 

思い出すたび声を出して泣き、仕事もうまくいかない、ベッドにはいってもいつもいるあのこが隣にいないことで涙が浮かぶ、いっそのこと死んであのこのところへ行きたいと何度も思う。ペットロスを検索したところ、ペットロス 克服という文字が引っかかる。そこでわずかな違和感を持った。

 

ペットロスを克服したいわけじゃない

何故違和感を覚えたのか。私は克服したくないのだ。ペットロスと言われる私のあのこを思う悲しみは同時に思い出の再生だ。克服とはそれらとの別れを意味するのだと思ってしまった。忘れるというわけではないことはわかっている。それでも悲しむことでより近くにあのこといることを感じていたのだと気付いた。

 

ペットロスの克服に関して書かれているサイトをいくつか拝見した。これらで何らかの癒しになる人がいるならばそれはそれで良いと思う。しかしペットとの別れは人の数だけあり状況も様々、そしてそれに伴う感情は一つにまとめることは不可能だ。私にはあまりぴんとこなかった。

 

一番よく目にしたものはキュブラー・ロス・モデルと呼ばれるものだった。

 

否定(あのこはまだ死んでいない)

怒り(獣医や自分、環境への怒り)

交渉(神様どうかあのこを生き返らせて)

抑うつ(無気力、強い悲しみ、鬱)

受容(ペットの死を受け入れ前向きな感情が戻る)

 

これらの流れを経て回復していくというものだった。提唱したキュブラー氏自身全てに当てはまるわけではないと言っている。しかしもし当てはまりこれで救いとなる場合には参考にするのも一つの手段だと思う。

 

www.koinuno-heya.com

 

 私の場合あまり当てはまるように感じなかった。克服しなければならないと考えるときの負担はやはり大きい。悲しいとき、涙があふれて仕方ないとき、心は軋むように痛むし寂しいと思う。しかしこの状態が嫌だとは思えなかったし、思いたくなかった。とはいえ仕事が手につかない、死にたい、食欲がないなどというものは問題である。どうすればいいか考えた結果、ペットロスと付き合い方、解釈の仕方を変えることにした。

  

ペットロス克服ではなく付き合い方を考える

あのこが亡くなったことを悲しむことは当然だった。あのこは私の家族だ。家族を失う悲しみは大きいことが当たり前なのだ。これはもうどうしようもない。一生死ぬまで思うことだ。一生あのこを思って泣く。意識して悲しみを軽くする何かをする必要はない。そう思うと気持ちが軽くなった。

 

私は恵まれているのだと思う。あのこが息を引き取る瞬間私はその場にいることができた。そのためあのこの死が間違いなくあったことを否応なく理解できている。お世話になった獣医さんや看護師さん、その他環境に対しても良くしてもらった感謝ばかりだ。自分に対するものはあるものの、あのこのために全力を尽くせたとは思っている。全力を尽くせる環境があったとも言える。そのため自分への怒りはまだ許せる範囲におさまっていた。そう思えるのもあのこが必死に懸命に生きてくれたおかげだ。

 

死ぬ直前のあのこの苦しみを見ているせいか生き返らせてとも思わなかった。あのこは今暖かく優しい場所にいるはずだ。肉体の痛み苦しみから解放されているのに引き戻すことはできない。これらのことを思うと前述したキュブラー・ロス・モデルでいえば交渉という段階まではどれにも当てはまることはなかった。

 

その上で私がよく考えたことは死にたいということだった。あのこは死んでしまった。自分を含め誰かを責めても何もならないし、責める気もない。生き返らせることもできない。ならば私が行くしかない。そんな流れだ。

 

自殺してもあのこのところへは行けない

私は自殺を考えたことはこれまでにもあった。しかし心から真剣に死ぬことを考えたことは少なかったのだと思い知った。本気で死ぬ方法を考えていた。誰かを憎むことなく死ぬことを考えることもあるのだ。しかしあのこのことを考えて思考は止まる。

 

あのこの生き様を思う。あのこは最後の最後まで必死に命を燃やして煌めいていた。生きることに対する懸命な生き様。あのこは生きるということに全力を尽くしていた。そんなあのこが今どこかに居るとして、自殺を選ぶ私が同じ場所に行けるのか。行けるわけがない。

 

そして私は何度も何度もあのこに救われていた。死にたくなったときに癒してもらった。寄り添ってくれた。あたたかでやわらかな体に触れると触れたところから疲れが消えていくようだった。私があのこを病院に連れていったとき戻ってきてくれた。私が席を外した間も待っていてくれた。夜眠ってしまった時間も頑張ってくれていた。おひさまのある時間、私がそばに行くまであのこは頑張ってくれた。それがどれだけ私の救いになっているのか。

 

あのこに救われた私の心や人生を簡単に放棄していいのか。駄目に決まっている。そう思ったら死ぬという選択肢はなくなった。

 

生きる術を放棄することは自殺と同じ

 仕事をする気力がわかない、食欲がない、何もしたくない、という状況に陥るときもあった。しかしこれは結局そのままにしておくと死んでいくだけだ。積極的に死ぬことをしていなくても死ぬことがわかっていながら何もしないことはただの自殺だ。私は自殺の選択肢はなくしたのだ。生きていくための活動をやめることは自殺だと思うことでわたしは当たり前の生活を取り戻した。

 

克服するために何かをするのではない

ペットロス 克服 と検索すると克服するためのステップが書かれていることが多い。それを求める人も当然多いだろう。しかしそれが少しでも負担と感じるならば一旦克服することをやめてもいいのではないかとも思う。大切な家族を亡くしたのは自分であり、悲しみも苦しみも自分の中にあるものだ。答えは外にはないのではないか。

 

克服を目的にすることは私にはできなかった。克服をそもそもしたくないと考えている自分がいたからだ。だから克服しようという気持ちは捨てた。かわりに今の私の感情、状態、状況をより深く考え、あのこのことを想うことにした。

 

私はあのこが大事であのこを思う気持ちを時間とともに薄れさせたくなかった。しかし死ぬことはできない。してはいけないとストレスなく思う。あのこに救ってもらっていた癒してもらっていた人生をきちんと生きていくのだ。

 

克服をするためにはなにもしなかった。しかし私はあのこのおかげで残りの人生を誠実に見つめて生きていくと気持ちが固まった。

 

あのこが居ない欠けた世界で生きる

あのこが居なくなって四ヶ月になろうとしている。それでも突然悲しくて号泣する日がある。あるサイトでは三ヶ月をすぎてもペットロスの症状がおさまらなければ病院へと書かれていた。四ヶ月どころか何年経っても強い悲しみはあるのだと思う。でもこれでいいのだと思った。

 

うちにいた猫たちが眠るお墓へいった。涙が止まらなかった。みんなもう私の見る世界にはいないのだ。そしてあのこももういない。みんないなくなってしまった。私の世界は私の脳が映し出す世界が全てだ。私が見る私が居る世界であのこやあのこたちは凄まじく大きい存在で、欠けているものは埋めることはできない。埋めようとも思わないけれど、埋めることなど不可能なのだ。

 

生きていく限りさまざまなものが失われ、さまざまなものたちとの別れがある。新しい出会いは世界を広げるにすぎず、空白を埋めることにはならないものだ。私が死ぬまで喪失感はあり強い悲しみはあり、時に無気力となることもある。それでいい。それがいい。私はあのこを喪った悲しみとともに生きていく。そしてあのこに救われた命と人生を誠実に生きていくのだ。